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第6回 荘園の名前にちなむ「笠原村」(後編)

 

笠原は浅羽荘の中心?


明治22年に行われた山崎村と岡崎村の合併時に、新しい村名として「笠原荘」の「笠原」の名前が採用されたわけですが、それから67年後の昭和31年9月に行われた袋井町との合併時には、旧山崎村のうち清ヶ谷、小谷田、横砂、石津および本谷の約210戸が袂を分かち、こちらは同年6月に新設されたばかりの大須賀町に9月に編入し、行政区域が異なってしまいました。


その結果、笠原地区は江戸時代の岡崎村を中心とした地域を指す名称となり、その範囲も笠原村時代の6割ほどになりました。


さて、問題は岡崎村です。この村は、平安時代後期に成立した浅羽荘のうち岡(おか)郷(ごう)(のち岡山、五十岡、岡崎にわかれた)と呼ばれる土地の中心で、浅羽荘の中でも一等地でした。


浅羽荘は摂政や関白を輩出した名門貴族、藤原氏の家政機関で、一門の子弟を養育するための大学でもある「勧(かん)学院(がくいん)」を維持するための主要財源の一つで、南北朝期の14世紀半ばには年貢として、お茶が都に運ばれ、その時の記録が残されています。これは、県内で最も古い茶栽培の記録の一つです。


古くは浅羽荘を代表する土地であったものが、隣の笠原荘の名称を名のるところなど、歴史の綾を感じますね。(Y)

 

参考文献

  • 『ふるさと笠原第1集』 (S234 フ 1)
  • 『校正 郷里雑記』 八木義穂 (S230 コ)

※袋井市の歴史を調査研究の場合は、袋井・浅羽図書館の郷土資料コーナーをご利用下さい。