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第92回 御霊信仰と袋井20 祇園の杉の祠4

 

前回は磐田市に残る三ヶ所のオカリヤ(御仮屋)のうち、旧太田川右岸に所在した新出村・東脇村の2事例を紹介した。今回は、天竜川左岸の磐田市富里(旧豊田町富里)の事例を紹介しよう。


富里という地名は土地改良事業によって昭和51年に成立した新しい地名で大字(おおあざ)匂坂西・匂坂下・気賀東の一部が新たに富里となったものである。


内山真竜の『遠江風土記伝』によると元は匂坂郷という郷村であったが、正保年間(1644~48年)の頃に六村に分轄して(村切りという)匂坂上村・匂坂中村・匂坂新村・匂坂西村・匂坂中之郷村・匂坂下村がそれぞれ成立したという。


これらのうち旧匂坂西村(匂坂西下組)に祇園の杉の祠「オカリヤ」が伝わっている。匂坂西下組といえば、今は「大めし祭り」と呼んでいるが、かつての修験道行事である「強飯式(ごうはんしき)」という全国的にも希少な伝統行事が継承され、民俗学の世界では名の知られた地区である。


「大めし祭り」というのは正月行事(当たり日は1月11日)で、新しく迎えた嫁を接待し、お椀に山盛りの御飯を食べさせるもので、一種の通過儀礼であった。なぜこのような、修験道行事が継承されているかというと、匂坂周辺は気賀組という山伏や陰陽師集団が地域の治水や用水の掘削に関わる神事を行い、末裔が分散して居住したことから、その儀礼が民衆の間に継承された珍しい事例なのである。


村の鎮守である諏訪神社の境内では、七月中旬の日曜日に、今も祇園の行事としてオカリヤを作っている。その内容は、朝から新竹と杉の葉で作り、完成すると本殿前に設置し、津島神社の御札を祀って提灯を飾り、御神酒を供えて、参加者が順番に参拝して終わるというものである。現在は、境内の林の中に捨てられ朽ちるのを待つが、本来は祭礼終了後、天竜川に運び、村内の厄と共に流していた。(山)