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第91回 御霊信仰と袋井19 祇園の杉の祠3

 

袋井市域で今も毎年作り替えられる杉の祠、「オカリヤ」は西同笠の一ヶ所だけとなってしまったが、磐田市域では3ヶ所で今も作り替えて祇園の祭事を行っているので、それを順次紹介していこう。


一ヶ所目が太田川・原野谷に架かる二瀬橋を渡った最初の集落、新出の春日神社境内、二ヶ所目がその北側の集落、東脇の十二社神社境内だ。江戸時代後期に纏められた地誌『遠淡海地誌』によると「新出村(大名)青山下野守知行小地名上組十五戸、下組三十四戸高三百五拾九石七斗壱升九合・・・参土神(うぶすながみ)春日大明神八幡大神」「東脇村(旗本)長谷川五兵衛(知行)御代官所十八、九戸高百十六石四斗五升六合・・・二瀬川渡場所」と記されている。当時は新出村が50戸、東脇村が18、9戸という小規模な村で、隣り合っているものの、新出村は浜松藩領、東脇村は旗本領と領主が異なっていた。面白いのが江戸時代には太田川・原野谷川には橋が無く、東脇村に川船の渡し場が設けられていたことだ。


現在は二瀬橋の南側で、両河川は合流するが、これは江戸時代初期に流路を付け替えて一つにしたもので、それ以前は決して交わらない二筋の川だった。


かつての太田川・原野谷川は高低差のほとんど無い海岸低地を太田川は西に向かって蛇行して流れ、現在の今之浦川がその名残りだ。原野谷川は海岸砂堤の内側を東に蛇行して流れ、現在の前川がその名残で、末端は東浅羽の江之端周辺に拡がる内海に注ぎ込み海には出ていなかったので度々洪水を繰り返し、湿地や池が多く見られた。


関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は慶長8年(1603)に幕府を開くと、翌年遠州総検地を行い、同時に両河川を合流させ流路を付け替える大工事を実施させた。川の西側には御厨大囲堤が築かれ「御厨十七郷」と呼ばれる輪中が成立し、その中の一つとして新出村・東脇村が誕生した。旧太田川に面する両村では、特に川祭である津島牛頭天王社(愛知県津島市)の祭神を祀る、祇園の御霊祭を大切に受け継いできたわけで、両社のオカリヤは角をピンと張った牛頭天王を象っているのが特徴的だ。(山)