トップページ > 図書館だより・出版物> 伝えたい袋井のあゆみ> 第90回 御霊信仰と袋井18 祇園の杉の祠2 

第90回 御霊信仰と袋井18 祇園の杉の祠2

 

先月号では市内西同笠地区の寄木神社境内で祇園の祭礼に伴い、毎年作り替えられる「祇園のオカリヤ(御仮屋)」を紹介した。現在、袋井市内でおこなわれているのは、この一例だけとなってしまったが、隣接する太郎助地区でも昭和60年頃まで、同じように「祇園のオカリヤ」を毎年作り替え、祭礼をとりおこなっていた。


ここで少し、太郎助の歴史を紐解いてみよう。幕末の横須賀藩校の教授を勤めた八木義穂がまとめた地誌『郷里雑記(ごうりざっき)』には川上太郎助という人が、西浅羽地区の西ヶ崎村からやってきて開発したことから、村名となったという言い伝えを記している。


もとは「なぐり」と呼ばれる場所で、集落の北側一帯には大きな湿地帯が有り、これを永禄年間(1558年~1570年)に戦国大名の今川義元・氏真が大規模な治水事業と排水用の運河の掘削、そして新田開発を進め浅羽低地一体を開発したところから始まる。


「なぐり」とは湿地の名残(なごり)という意味で、その中にある島状微高地の真ん中を突き抜けるよう湊(用水路)を掘り抜き、新在家とよばれる用水路に面した河川交通の新湊を拓いたことから始まる。湊はのちに江川や前川と呼ばれ、これに面して村の鎮守も新しく迎えた。それが現在の神明神社ということだ。その境内で毎年、新竹の柱に杉の青葉を挿して屋根がけをしたオカリヤを作り、祇園の川祭を400年以上おこなっていたわけである。


昭和60年頃、篤志家により立派な津島社の祠が寄附されたので、オカリヤを作る祭礼は無くなった。平成3年11月に郷土資料館を開館するにあたり、太郎助の杉の祠を形として残したいという計画を氏子総代に相談したところ、長年作ってきた人たちが喜んで協力してくれた。お陰で展示用の杉のオカリヤを現地、太郎助の神明神社境内で数年ぶりに作ることになった。展示用なので先に方形木枠を作り、その上に組み上げた特注品であった。完成すると軽トラックで資料館に運ばれ、西同笠の杉のオカリヤと二つ並んでお披露目した。この二つのオカリヤは今も資料館に並んでいる。(山)