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第87回 御霊信仰と袋井15 遠州への波及3

 

都やその周辺で展開した御霊信仰が遠州に入ってくる道筋の最後として御霊系を紹介しよう。袋井市に関係するのが三筆の一人として歴史に名を残す橘逸勢(たちばなのはやなり)の御霊だ。逸勢は延暦23年(804年)に最澄・空海らと共に遣唐使として唐に渡って書を学び、大同元年(806年)の帰国後はその第一人者となった。


承和7年(840年)に但馬権守に任ぜられたのを最後に出仕せず静かに暮らしていたが、承和9年(842年)に嵯峨上皇が没すると、その2日後の7月17日に皇太子・恒貞親王(つねさだしんのう)の東国への移送を画策し、謀反を企てたとの疑いで伴健岑(とものこわみね)とともに捕えられ拷問を受けた。しかし両者共に罪を認めず、7月23日には仁明天皇より両者が謀反人であるとの詔勅が出され、兵によって包囲された。


最終的に、大納言や中納言、参議は免官され、恒貞親王は皇太子を廃され、逸勢は伊豆へ、健岑は隠岐への流罪が決まった(承和の変)。逸勢は護送途中、遠江板築で病没した(60余歳という)。逸勢の後を追っていた娘は板築駅まできたときに父の死を知り悲歎にくれる。娘はその地に父を埋葬し、尼となり名を妙冲と改め、墓の近くに草庵を営み、菩提を弔い続けた。


死後、逸勢は罪を許され、嘉祥3年(850年)に正五位下の位階を贈られ、娘の孝行話は都に伝わり賞賛され、仁寿3年(853年)には従四位下が贈位された。


無実の罪で死亡した逸勢は怨霊となったと恐れられ、貞観5年(863年)に行われた朝廷主宰の御霊会では御霊神の一つに加えられ、現在も京都市の上御霊神社と下御霊神社で「八所御霊」の一柱として祀られている。


逸勢が没した板築駅は市内山梨に所在したと伝え、鎌倉時代後期のものではあるが、その供養塔が用福寺境内に存在する。(山)