御霊信仰の仏教行事である御霊会について、祇園社と祇園祭(祇園御霊会)を中心に説明してきた。平安京の祇園社の祭礼おいて、笠鉾が大型化した笠鉾型舁山(かきやま)がまず成立し、その上の造りもの(出し物)である神体山の山型が巨大化して車輪が付くようになり、これを表現するため「山車」という漢字が宛てられ、読みは出し物を略した「だし」になったという経緯を説明した。
平安京発祥の御霊信仰が全国に広まったものとして、祇園の他に天神信仰を忘れてはならない。これは藤原氏との政争に敗れ、九州大宰府に左遷され、恨みを残して亡くなった菅原道真(845~903 年)の怨霊を御霊神として祀ったもので、これを鎮め善神とするために設けられたのが北野の天満宮であった。遠州にも多くの天神社・天満宮が存在するが、これも御霊信仰の産物である。
平安京では稲荷信仰の惣本宮である伏見稲荷社の祭礼も御霊信仰の影響を受けて、早くも平安中期には稲荷御霊会として形を整えている。祭礼では神霊を五基の神輿にそれぞれ一柱ずつ乗せ、稲荷山麓の本社から東寺東の御旅所(おたびしょ)に向かって神霊を渡御(とぎょ)させるもので、現在も毎年5月連休中に「稲荷祭」として行われている。
平安京内唯一の寺院として設けられた東寺を嵯峨天皇から託された真言宗の開祖空海は、稲荷山の神を東寺の鎮守として境内に迎え、その縁から神仏分離が行われる明治初期までは金堂前に神輿が渡御し、真言僧の密教加持を受けていた。このように御霊信仰は多様に展開しているのである。
次回からは、都やその周辺で展開した御霊信仰がどのように遠州に入ってくるのかを説明しよう。(山)