今回は前回に引き続き「山」と「山車(だし)」の成立について説明しよう。祭礼に欠かせないものとして、「だし」や「ねり」を挙げる人は多いのではないだろうか。本来、「だし」は無かったが新調したり、中古品を購入し、手を加えて整えた自治会も多い。「だし」はなぜか「山の車」と書く。その理由も「山」の成立に関係している。
「山」は笠鉾型舁山(かさほこがたかきやま)と呼ばれ、台枠に神霊の依り代となる短い真木を立てた四人で担ぐ笠鉾の傘の上に、造り物を乗せる舁山から始まる。これを描いたのが15世紀前半の「月次祭礼図模本」で最古の資料である。そこに描かれた造り物は、中国の故事にちなんだ神仙境を表し、山型の上に老松が立ち、そこに供の童子を連れた中国の高士(こうし)林和靖(りんなせい)註)のところへ鶴が挨拶に訪れた情景を作り込んだもので、趣向をこらした「出しもの」であった。
山型は単なる背景でなく、社と一体となる神体山の趣で、神の宿る山とされる。これが江戸初期以降大型化し、車輪の上に乗せる「山」へと発展した。山をかたどった出し物が車輪の付いた台上に造られ、洛中を引き回すので「だしもの」が「だし」に略され、見た目そのものを表す「山車」という漢字を当てるようになったわけだ。 (山)
註:高士・・・中国では有能な者が世俗を離れて山林の中に隠れ住み、何者にもとらわれない生き方をする人を尊ぶ風潮があり、そのような人を「高士」と呼んだ。林和靖は宋代の詩人。