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第76回 御霊信仰と袋井4 朝長公御祭礼

 

御霊信仰の中核ともいえる祇園信仰の説明を、京都八坂神社を起点に進めている。まだ途中であるが、市内でも諸行事が行われる夏場になってきたので、いったん袋井の事例に移そう。


毎年8月15日の夜に、袋井市の文化財指定を受けた源朝長公御祭礼(みなもとのともながこうごさいれい)という念仏行事が行われている。この祭礼は長い年月の間に変化し、現在では盆行事の念仏供養という形をとるが、三川地区に根付き、継承されてきた御霊信仰の代表事例ということができる。


祭礼の主人公である源朝長は1160 年(平治元)に起きた平治の乱で平清盛に敗れた源義朝(みなもとのよしとも)の次男で、父義朝とともに京都から東海道へ落ち延びる途中で落ち武者狩りにあい、受けた矢傷のため自害して果てた。都でさらされた朝長の首を、家臣である大谷忠太(おおやのちゅうた)が夜の闇に紛れ、故郷の大谷村に持ち帰り供養塔を建てたと伝えている。


三川の積雲院(せきうんいん)入口には鎌倉時代末期の緑色凝灰岩製(焼津市当目石(とうめいし))の五輪塔3基が大切に祀られ、江戸時代後期に編纂された『遠江古蹟図絵』の絵図では向かって左側が義朝、中央が朝長の兄の義平(よしひら)、右側が朝長の供養塔と記されている。建立は朝長の死から150年ほど経った鎌倉末期、背景には御霊信仰が盛んとなり、不遇の死をとげた著名人を対象とした御霊会が各地で行われ始めたことにありそうだ。 (山)