慶応4年(1868)に延喜式内社である許祢(こね)神社と名を改めた木原権現の歴史を探る手がかりを検討して行こう。木原権現の神主は代々、木原家が世襲しており、その史料が今も残されている。中でも特筆されるのが『木原権現由来記』という巻物である。
奥書(おくがき)によると、寛永19 年(1642)に当時の神主であった鈴木久次が、社記の散逸を恐れて編集したもので、全長17mに及ぶ長大なものである。その内容は全体を8つの部分で構成し、熊野権現の勧請(かんじょう/神仏の分霊を他の場所に移し祀ること)から始まり、御神体・年中行事・造営の由来に触れ、最後に神主家の系図を記している。
勧請の部分では「木原の社は熊野権現である。人王72 代白河院の時、木原郷に一筋の川があり、強雨で水位も高くなり田畠を浸してしまった。村人は悲しみ、永保2年(1082)3月に堤を築こうと集まると、そこには烏がたくさん群がり、白幣が出現していた。人々が不思議に思っていると、子供が神憑りして『我は熊野権現である。この地に鎮座して何年にもなるが、殆どの者がこれを知らない。この地を神聖にして我を祀るならば水難を防ぎ、五穀豊穣にするであろう』と託宣した。木原の人々はこれにより社を建て、白幣を納めて木原権現と呼び大切に祀った。」という内容である。
この下線部分は慶応4年頃に式内社にふさわしく、古く見せるための改竄が施されている。具体的には人王72代白河院を人王42代文武天皇、永保2年を大宝2年(702)と水を付けて擦り、そこに墨で書き込んだ痕跡があることが、詳細な研究によって解明されている。
原文書から読み取れるのは、水害の難から村を守ることを目的に熊野権現の若宮を永保2年に勧請したということである。実はこのキーワードが今後木原権現の歴史を解明する重要な鍵となって行く。 (山)