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第67回 熊野信仰と袋井31 海の熊野と袋井

 

東海道の街道に面した集落の一つに木原 (きわら) 村があり、その中央には木立に囲まれた「木原権現(きわらごんげん)」あるいは祭神の名でもって「熊野権現」とも呼ばれた神社の社殿が鎮座している。読者は木原権現と言っても、ピンとこないかもしれない。現在の社名が許禰神社(こねじんじゃ)となっているからで、この社名は幕末の慶応4年(1868)から新たに使い始めたものだ。


『延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう)』という、延長5年(927)に朝廷によってまとめられた記録がある。これには当時「官社」に指定された全国の神社一覧が記載され、それを延喜式内社(えんぎしきないしゃ)と呼んだ。その中に「遠江国山名郡許禰神社」とあるのを、当時の宮司が木原権現はこれに当たると主張して改称したことによる。


明治新政府により慶応4年3月28日に「神仏判然令(しんぶつはんぜんれい)」という命令が出され、神社で仏を祀り経典や仏具を持つことや、神仏が一体となった権現・大菩薩・明神という尊格を用いてはならないという方針が示された。これにより、全国一斉に神社から仏教色を排除し、社名や祭神の変更が行われた。木原権現はその機運に乗じて、社名を歴史があり、格式は高いが実際、どれがそれに該当するか不明となっていた「許禰神社」が当社のことだとして登録した。それ以後この社名を正式に名乗り、祭神を伊弉諾命(いざなぎのみこと) 、速玉男命(はやたまおのみこと)、事解男命(ことさかおのみこと)と定めた。


歴史を遡ると木原権現は平安時代後期に紀伊国藤白王子権現(和歌山県海南市)から熊野権現の王子神が勧請され、神職の鈴木家も共にこの地に移り住んだことから始まっている。 (山)