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第66回 熊野信仰と袋井30 海の熊野と袋

 

近江の姨綺耶山(いきやさん)長命寺に属する聖(ひじり)の詰め所、穀屋(こうや)から発見された参詣曼荼羅には、本堂への参詣道「本坂」以外に聖の宿坊が建ち並ぶ脇道「裏坂」のようすが描写され、そこを通る多くの参詣人と回りに小さな建物の屋根が密集して描かれている。


聖は諸国を回り、西国三十三観音札所巡礼の功徳を説き、浄財を募り、個人から代理参拝を請け負った。寺院からは堂社再建を目的とした勧進活動を請け負い、積極的に本願となる大寺院を渡り歩いて活動を展開した。


長命寺に属する聖の活動は、木原の「那智山長命寺」が正式な寺院として成立した天文5年(1532)頃が最も盛んで、山内には宿坊と住坊を兼ねた子院が次々に建てられ、諸国には出先としての堂が設けられたが、徳川幕府が成立すると、所属が曖昧で定住性の薄い聖の活動は厳しく制限され、急激に衰退した。長命寺裏坂の子院も例外ではなく、早くに廃墟となった。


これまで木原に所在する「那智山長命寺」のルーツを訪ねて旅を続けてきた。私はこの寺は、その名が示すとおり、那智山の観音信仰(那智山は熊野三山の一つで熊野信仰の中心、西国三十三観音第一番札所の観音信仰の起点でもあった。)と長命寺の観音信仰(那智山と同じ西国三十三観音第三十一番札所)の両者が融合したもので、幹線道路の東海道に面した立地の良さから勧進聖(穀屋聖)、廻国聖、熊野先達と呼ばれた人々の活動拠点(観音堂)として始まり、やがて海蔵寺住職を招請して正式な寺院に発展したというストーリーを描いている。では、次回からは本体の木原権現について考えて行こう。 (山)