市内木原に所在し、天文5年(1532)に成立したと伝える那智山長命寺のルーツを求め、その糸口を得るために近江国に所在する西国三十三観音霊場の第三十一番札所の姨綺耶山(いきやさん)長命寺を探っている。
幸いなことに16世紀代の長命寺一山の景観は、『長命寺参詣曼荼羅』(縦155~161㎝×横159~180㎝)と呼ばれる一幅の絵画資料に詳細に描かれており、その年代は戦国末期と推定されている。これを見ると湖辺から本堂のある山の中腹まで、無数の堂・社・子院・宿坊等がひしめき合い、多くの参詣人が訪れた状況が良くわかる。
これは数年前に勧進聖(かんじんひじり)の詰所であった穀屋(こうや)と呼ばれる建物から見つかったもので、同じものが三幅あり、いずれも三つ折りに畳んだ状態で残されていた。それは持ち運んで掲げ、喜捨を求めるために唱導を行った生々しい証拠である。
勧進聖は長命寺の再建を目的として浄財を勧進することを許可された聖で、参詣曼荼羅を長命寺の内外で絵解き・唱導し、その勧進に結縁(けちえん)した人々に、宗教的・社会的作善(さぜん)を勧め、合わせて長命寺の本尊札や牛玉札(ごおうふだ)などを配布して、浄財を募った。細かく見ると、本堂右下山中の木立の中には、屋根だけ描かれた宿坊や子院がところ狭しと描かれ、そこを通る道には、本堂に通じる参詣道より多くの参詣者が描かれ、賑わいを見せている。実は、これが、穀屋を拠点として活動した聖たちの住まいと考えられるわけだ。 (山)