市内の木原に所在する那智山長命寺のルーツを訪ねて熊野三山を構成する一つ、那智山を検討したが、その痕跡を推測させるものは残念ながら見つからなかった。そこで、ここからは目線を変え、寺号の「長命寺」から糸口を探ることにしよう。
長命寺という寺号からまず連想されるのが、近江国の姨綺耶山(いきやさん)長命寺だ。現在の地名では滋賀県近江八幡市になる。この寺院は室町時代に成立した西国三十三観音霊場の第三十一番札所として知られている。
那智山が第一番札所なので、長命寺と那智山は同じ西国三十三観音霊場の札所同士という関係にあり、つながりを有していることから期待できるかもしれない。
寺院は琵琶湖畔にそびえる長命寺山の中腹に位置し、麓から本堂に至る800段の階段で知られる。観音霊場への巡拝は戦国時代には一時途絶えるが、江戸時代後期になると交通の発達、貨幣の普及と庶民生活の安定が背景となり伊勢参宮をはじめ、遠隔地への社寺参詣が流行した。その頃の長命寺山は現在のような陸続きではなく、島だったので、三十番札所の竹生島宝厳寺から船で山麓の湊に直接乗り付けて参拝している。
ところがこれから検討したいのは、多くの庶民が巡礼札所として参詣した江戸時代後期の姿ではなく、木原の長命寺が成立した天文五年(1532)以前の近江長命寺の実態と景観がどのようなものか、である。
長命寺山は「洛叉峰(らくしゃみね)」と呼ばれる山塊の南端にあたり、北端の伊崎不動尊を本尊とする伊崎寺までつながる山伏の山林行場であった。伊崎寺は日本仏教の母体とされる比叡山で、回峰行(かいほうぎょう)と呼ばれる霊山を巡る山林修行(千日回峰行の原型)を創始した相応(そうおう)が修行場として開いた聖地で、伊崎寺五ヶ寺と呼ばれる山伏集団が洛叉峰の行場・山中行者道の維持管理を行い、その中に長命寺が含まれる。つまり長命寺には山伏集団も存在していたわけだ。 (山)