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第61回 熊野信仰と袋井25 海の熊野と袋井

 

先に「那智山」が山そのものを指すのではなく、一山という宗教組織であることを紹介した。この那智一山を構成する要素の一つに、那智浜に面した「浜宮天台宗補陀洛寺」があった。明治の神仏分離で浜宮王子社(現在はゆかりの地に熊野三所大神社の社殿が建つ)と補陀洛山寺とに分離されてしまったが、かつては神仏が共存し融合する空間であった。


浜宮は補陀洛渡海(ふだらくとかい)と言って、南海の彼方に在るという観音の「補陀洛浄土」に往生するため、修行者が長年の修行の最後に渡海船内に閉じ込められ、死出の旅へと向かう起点の場所であった。他に土佐の足摺岬、室戸岬からも渡海した記録が残っている。


海の熊野信仰の根底には、この補陀洛浄土への観音信仰があり、袋井市内海岸部に所在する寄木大明神(寄木神社)や原野谷川流域に分布する十一面観音を本地とする若一王子がその影響のもとで祀られた。


補陀洛山寺には実物大で復元した渡海船が公開されている。その構造は和船上に入母屋造りの箱を設置し、四方には死者の悟りの段階を示す発心門(ほっしんもん)・修行門・菩提門・涅槃門の四門(しもん)が設けられ、その間を四十九の塔婆を象った瑞垣(みずがき)で囲う。


船内には60日分の食糧を積み込み、修行者が狭い箱の中に乗り込むと、外から閉じて釘付けにされ、船に曳かれて沖合まで出たら綱が切られ、海流に乗って観音浄土への往生を目指した。中には日収上人のように琉球に流れ着き布教活動に生涯を終えた僧も実在した。


補陀洛渡海は平安時代後期から鎌倉時代が最も盛んで、戦国時代までは、命がけで実践されたが、平和な江戸時代になると亡くなった渡海僧を形式的に渡海させ、水葬という形に変化していった。補陀洛山寺には20名程の渡海僧の記録が伝わっている。 (山)