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第60回 熊野信仰と袋井24 海の熊野と袋井

 

「蟻の熊野詣」と言われたほど平安時代後期~鎌倉時代にかけて多くの貴紳が訪れた熊野三山であったが、実際に那智山への参詣が盛んとなったのは地方武士や有力農民が参詣者の主体となる15世紀代であった。


この頃、西国三十三ヶ所観音霊場札所への巡礼の形が整いはじめ、その一番札所が那智山(現在の青岸渡寺)であったこともあり、熊野三山で那智山が特に賑わっていた。しかし応仁の乱以後、世の中は戦国の世となり安全な旅ができなくなる16世紀には衰退し始める。


国の世となり安全な旅ができなくなる16世紀には衰退し始める。

諸国には「熊野先達」と呼ばれ、熊野への道案内と出発時や途中の社寺で行う様々な宗教儀礼が執行できる専門の案内人(山伏)が居住しており、「御師(おし)」と呼ばれる山内の特定の宿坊と契約を結び、参詣人を導いていた。無論、袋井市内にも、この熊野先達は居住していた。


平和な江戸時代になると、伊勢詣の延長として熊野参詣は再び盛んとなる。徳川幕府が紀州藩に命じ、33年もの歳月をかけて天保10年(1839)に完成した『紀伊続風土記』巻之七十五牟婁郡那智山社僧坊舎の項には、当時の山内組織が記されている。それによると山内には禰宜(ねぎ)・神主はなく全員が社僧という神に仕える妻帯、非妻帯の僧侶集団で構成されていた。


トップが清僧(せいそう/非妻帯)執行(しぎょう)天台座主の潮崎尊勝院で、配下に東西両執行2人(清僧真言宗西座 西仙瀧院、妻帯僧天台宗東座 潮崎圓乗院)―宿老10人―講師12人―衆徒75人―瀧衆(山伏)66人―役人12人―行人85人―穀屋(聖)7人で、これに妻子が加わる大所帯からなり、山内の宿坊22坊を運営し諸国からの参詣人を分宿させていたが、これらの記録類には袋井市木原にある長命寺に繋がる記載は見られない。(山)