海の熊野と袋井をテーマに連載してきたこの企画は、東海道の街道に面した木原集落の木原権現と長命寺がどのようにしてできたのかを考えて締めくくりとなる。では、最後の山場にとりかかろう。
木原の村鎮守は、現在、許祢神社(こねじんじゃ)という名称を付けた神社だ。しかし、この名称は明治初期の神仏分離政策に伴い新たに名乗ったもので、それ以前は熊野権現の若宮を祭神とする「木原権現」が正式名称であり、神と仏とが融合した「権現」という尊格を祀る、赤尾山長楽寺(現在の赤尾渋垂神社で明治初期の神仏分離で寺院を廃し、神社とした)の真言僧と村に居住する神職の木原氏が共に祭祀を執り行う平安時代後期(12世紀か)に成立したお宮だった。
この変更は、仏教色を排除しないと、神社として存続が許されなかったことからとられた措置で、延喜5年(927)にまとめられた『延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)』に記載された山名郡の官社「許祢神社」が、その所在が確定していないことを巧みに利用して名乗ったことに始まる。
この木原権現に隣接して西側には、曹洞宗寺院の那智山長命寺が所在し、今は神社と寺院は分けられているので別々の存在と見てしまうのだが、両者は本来一体の存在だった。本尊は聖観世音菩薩像で紀伊国那智山長命寺から伝来したという伝承を持ち、その前身は木原権現の本地仏(ほんちぶつ・神が仏の姿で顕れたもの)を祀る本地堂であったと考えられる。
天文5年(1532)に、海蔵寺八世住職の名を借りて、曹洞宗の檀家寺となり熊野色は次第に薄れて行く。毎年お盆には市の指定文化財となっている木原大念仏の奉納がこの本堂前で行われている。では長命寺のルーツを探しに熊野三山の一つ那智山を訪ねてみよう。(山)