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第57回 熊野信仰と袋井21 海の熊野と袋井

 

浅羽町史編纂に伴う寺社の悉皆調査で、旧下諸井村の鎮守 八雲神社を調査し、そこで熊野神を発見した。55回で紹介したように、明治以前は四天王社という名前で祇園の神である牛頭天王(ごずてんのう)を祭神として祀る、夏の祓いの神社であった。


ところが、神社の覆屋内には同じような規模の祠が二基並んで祀られている。一つは祇園社としても、同格に祀られるもう一つの祠の祭神は果たして何だろう。


宮司さん総代さん立ち会いで、本殿扉を開けると、向かって右側が祇園社、左側がなんと、熊野十二所権現だった。やはり、下諸井村の鎮守は熊野の神々であったわけだ。それを明治初期の「一村一社統合令」により、村内各所に祀られた祠の多くを村鎮守の境内に集め一括管理するという、政府の宗教政策に従った結果だった。


本殿内の棟札を探し銘文を確認すると「奉造立拾二所権現御棟札氏子繁昌祈所啓白 元禄拾四年辛己暦 □月吉祥日」と記されているのを確認した。これは元禄14年(1701)に熊野十二所権現の祠を、新たに造立しなおした時のものだ。


ところが、これ以外に青銅でできた仏像の残片一躯がみつかった。これを見た瞬間「出てくるべきものがようやくおでましになったか・・・」と。それは両手の部品と土台となる円盤が無くなった、鎌倉時代の懸仏だった。像高14.2センチの本格的な彫りのしっかりした像で、手の部分が無いので確定できないが、熊野三所権現の一つ、那智山の祭神を顕す千手観音座像と考えられる。この十二所権現が明治初期まで祀られていたのが、字十二所の地名が付けられた心宗院の境内だったわけだ。(山)