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第55回 熊野信仰と袋井19 海の熊野と袋井

 

長溝地区から原野谷川に沿って遡ると、諸井という地区に出る。ここは旧浅羽町で最も北端に位置する地区で東側に小笠山段丘の末端が迫り、西側には原野谷川と小笠沢川が迫る狭間に位置し、たくさん (諸)の水(井)が集まるところから、付けられた地名と言えるだろう。


江戸時代には上諸井村、下諸井村の二ヶ村から成り立っていた。下諸井村の鎮守は現在 八雲神社と称しているが、これは明治初期の神仏分離令で、仏教名称を禁じたために変更したもので、それ以前は「四天王社(してんのうしゃ)」という名称で、祇園社であった。祇園は祭神が牛頭天王(ごずてんのう)というインドの土着神が後に仏教の守護神となったもので、強力な厄払いの力を持つ。四天王の天王はここに由来する。


上諸井村の鎮守は、現在、王子神社と言い、やはりこちらも明治初期の神仏分離令で変更したもので、それ以前は「王子権現社(おうじごんげんしゃ)」という熊野三所権現の御子神 若一王子権現(にゃくいちおうじごんげん)を祀る社だった。これまで読んできた読者は、「ああ、富里地区の王子神社と同じだ。」と気づいてくれるだろう。諸井地区も原野谷川流域に展開した「海の熊野」に通じる要所の一つであったから、村の鎮守は熊野一色と言いたいところだが、下諸井村は祇園という、川の祓い神を祭神に選んでいるから、熊野神は無いと思っていた。


ところが、大規模な住宅地の建設計画が持ち上がり、曹洞宗心宗院(しんそういん)の廻りを発掘することになり、この寺院の範囲だけがなぜか「字十二所」と地名に残っていた。十二所とは熊野三所権現を始め、御子神などの総称だ。するとここはもと、熊野社があった場所なのだろうか。(山)