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第53回 熊野信仰と袋井17 海の熊野と袋井

 

原野谷川を遡り、ここからは西浅羽地区長溝村の熊野権現社を紹介しよう。実は長溝地先に「長溝十二所」という小字名の土地が存在している。十二所とはもちろん、熊野十二所権現を指すから、その場所には社が設けられ、かつて集落が存在したことを示しているのだろうか?


そこは原野谷川と蟹田川が合流する地点の三角形状に取り残された土地であった。県が原野谷川に対して大規模な改修工事を行うこととなり、河川敷内で埋蔵文化財の調査が必要になるか、不要かを判断するため、川の水位が下がる干潮時を狙い地面が露出している部分に土器が露出していないか丹念に歩き回り、その時に「長溝十二所」という場所があることを知った。平成6年冬のことだった。しかし、なぜ川の右岸(西側)に飛び地として浅羽町の長溝地籍が有るのだろうか?


現在の原野谷川と太田川の流路は徳川家康が征夷大将軍に任じられ江戸に幕府が設けられた慶長8年(1603)の翌年に、幕府の代官頭として遠江支配に関わっていた伊奈忠次(いなただつぐ)が奉行となり、川筋が悪く頻繁に洪水を起こす原野谷川の川筋を変え、太田川と合流させて遠州灘に直接排水できるよう、大規模工事が昼夜を問わず進められた結果できたもので、それ以前の長溝村中央部を貫いて掘られたことから、長溝地籍が新たな川筋によって分断され、この時に集落も鎮守十二所権現も現在の長溝地区に移転したようだ。(山)