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第51回 熊野信仰と袋井15 海の熊野と袋井

 

ここからは、浅羽地区西ヶ崎の鎮守社の紹介に移るが、最初に混乱しないよう基本となる事柄を整理しておこう。


西ヶ崎は海岸平野の低地帯に松山・梅山・松原・初越と東西に延びる砂州上に営まれた東浅羽地区各集落の西端に位置することから、西ヶ崎村と名付けられたが、村が拓かれた江戸初期より、西浅羽地区に含まれている。その理由を考えてみると、村を拓くにあたり、西浅羽地区の鳥羽野村(富里)の人々が拓いたという伝承と、当時、村東を原野谷川支流が流れ、地形的に隣村の松原村・初越村と分離していたからだと考えられ、鳥羽野同様に熊野信仰が盛んな村であった。


村の鎮守社は現在「明之宮神社」という名称で登録されているが、これは昭和初期に新しく申請したもので、本殿内の棟札や古記録を確認すると、現在は社殿が一棟だけになってしまったが、ここには「(西ヶ崎)熊野三所権現」と「牛頭天王」「明之宮稲荷」の3社が存在することが判明し、中心は熊野社であった。このように神仏分離が行われた明治初期や昭和初期から戦後には、神社名を新しくすることや祭神の変更すらごく普通に行われている。


このうち熊野三所権現には、御神体(本地仏・ほんじぶつ)として阿弥陀如来・薬師如来・十一面観音の三尊像が、明治初期の廃仏毀釈の難を奇跡的に逃れ、今も現存している。(山)