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第49回 熊野信仰と袋井13 海の熊野と袋井

 

中野白山社の熊野権現


中野白山社には寛正三(1462)年の年号を墨書した懸仏(かけぼとけ)が祀られている。懸仏というのは学術用語で、歴史的には「御正躰(みしょうたい)」と呼ばれた。つまり、寺社に祀られている仏に対して、それと同じ図像の御正躰を作って奉納する。観音が祀られているなら観音菩薩の御正躰を納める。その目的は父母や先祖供養、自分自身の滅罪である。


社には明治初期の神仏分離以前には仏像が祀られるのが一般的だったので、本殿の内壁には無数の御正躰が掛けられているところも珍しくなかった。中には祠の中に納める御神体そのものとして、祀られる事例もある。遠江にはあまり残されていないが、それでも鎌倉時代から南北朝にかけてのものが、北遠の山間部を中心に残されているが、中野は海岸平野における希少な事例といえる。


では詳しく観察してみよう。この懸仏は直径約30センチの円形板の表面に銅板を巻いて鋲で固定し、中心部に半肉彫の仏の姿を貼り付けている。裏側の板面には82文字の墨書が記され、判読できない文字があるが、その内容は「苫野中村に所在する天用寺の住僧 寛谿叟(かん けいそう)は熊野三山に参詣し熊野本宮・新宮で湯立て神事を行い、熊野の山の神様が仏の姿でお出ましになった観世音菩薩の御神体を製作し、その力で子孫が代々繁栄し災難からも守られることを祈念してこの地にお迎えする。寛正3年(1462)4月の吉日に謹んで申し上げる」というものだ。


この銘文内容はこれまであまり問題視されなかったが、2点で検討を要し、それが当時の熊野信仰の実態を解明する糸口になるとにらんでいる。(山)