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第47回 熊野信仰と袋井11 海の熊野と袋井

 

富里(鳥羽野村)の王子社


富里王子社に伝わる室町時代の獅子頭の底一面には、「維時正保三丙戌年七月吉日奉修補獅子頭 願主長田症司作」と墨書で修理銘が記されている。奉の上にある4つのチョンは四天王の略で結界を示し、本尊や主祭神の名称の前に加える。結界が記されることにより、この頭が権現の依り代であることが明確だ。


銘から江戸時代前期の1646年(正保3年)に修理されたことがわかるが、願主を存在しない「長田庄司(おさだしょうじ)」とすることが実に作為的な銘文だ。


西浅羽の鳥羽野村(富里地区)を拓いたのは永田一門という。一門に伝わる起源伝承に「先祖は平安末期に尾張国知多郡野間荘の荘司(荘園の代官)を務め、長田姓を名乗っていた。長田忠致(ただむね)は平治の乱に敗れた源義朝父子をかくまっていたが寝返り、湯殿で殺害し、首を平清盛に差し出して恩賞として壱岐守に任じられた。のちに、義朝の息子である頼朝が平家を壇ノ浦に滅ぼし、鎌倉より上洛する途中で、今度は長田父子を捕え板磔(いたはりつけ)にして処刑した。残った長田一族は各地に隠れ、その子孫の一部が鳥羽野村に住み、長田姓をはばかり永田姓を名乗った」という。


残念ながらこれを裏付ける記録は存在しない。鳥羽野村は旧原野谷川と旧太田川の合流工事後の17世紀初めに成立した新しい村で、それ以前の集落は村の南外れにある王子権現社南側一帯がその跡で、直接は繋がらない。しかも、王子権現社本地仏の十一面観音像も獅子頭も室町時代の作品で、伝承の時代とは300年近い隔たりがある。この伝承を裏付ける遺品として、正保3年に神社関係者が「願主 長田荘司作」と書き込んだというのが実態だろう。こうして「歴史」が新たに作られる。地域の歴史を紐解くにも細心の注意が必要だ。(山)