トップページ > 図書館だより・出版物> 伝えたい袋井のあゆみ> 第39回 熊野信仰と袋井3 海の熊野と袋井 

第39回 熊野信仰と袋井3 海の熊野と袋井

 

寄り来るカミをまつる 2


浅羽地内には、三ヶ所の寄木社が存在している。西同笠(にしどおり)・大野・中新田の三社で、このうち本社が西同笠で、これについては前回紹介した。


大野は江戸時代には同笠新田村と言い、中新田村と共に17世紀後半に同笠村から新田開発によって分村し新たに造った村で、村を拓くときに、鎮守の寄木大明神を勧請(かんじょう/祀神を分祀すること)して成立した。


両社共に社地は集落の北西隅、乾(いぬい)の方角とした。乾とは我国古来の鬼門で、異界に通じる方角とされ、旧家では乾の方角に、祖先神を祀る地の神の祠を置いた。つまり村全体の地の神の役割を果たしている。


平成5年に中新田寄木神社本殿を新調するにあたって資料調査を行い、古くなった祠の内陣幕に「元禄十三年庚辰九月 牧野氏」と墨書の文字が記されていることに気付いた。


神社を管理する祢宜屋(ねぎや・ねんや)の家には『中新田寄木大明神由緒書』という祭神にまつわる縁起書が伝えられている。これには「元禄12年8月15日の大風と高潮によって横須賀藩領内の海沿いの堤と海へ注ぎ込む河川の堤が大破し、翌年春から藩主の命により復旧工事を進めた。藩士牧野久森が5月9日に中新田村の状況を視察したおり、海岸に観音菩薩の木像が流れ着いているのを偶然見つけた。前年の高潮によって御神体ごと社が流失したので、新たな仏像が流れ着いたことを大変驚き、祠を建て替えてこの観音像を祀り9月19日に納めた」とある。幕と由緒書の両方からそれが事実であったことが判明した。


仏像は明治初期の神仏分離令によって処分され、牧野氏が納めた幕も、神社新築によって処分されてしまったが、縁起だけは歴史を語る証人として今も伝えられている。寄木神を観音菩薩として祀ることは海の熊野に直結する思想であった。(山)