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第28回 白山信仰と袋井16 袋井・浅羽からの白山巡礼5

 

美濃馬場(みのばんば)と呼ばれる長滝寺から国境の険しい峠を越えて越前国石徹白郷に入った一行は、決められた御師(おし)の宿坊へと導かれる。


何より一行の目を驚かせるのが、山をあえぎながら上り詰めた先に予想を裏切る広々とした盆地が拡がり、その廻りを2000m級の高山が取り巻く壮大な景観だ。


今でこそ石徹白は、人口百数十人の限界集落であるが、江戸後期には人口600人を越え、社家集落の上在所、社人集落の中在所・西在所・下在所と、末社人の三面(さつら)・小谷堂(こたんどう)の6ヶ村から成り立っていた。


明治維新で世の中の仕組みが大きく変わり、御師の活動が無くなって140年。今では宿坊は全て廃絶し、鮎釣り客やスキー客相手の民宿として数軒が営業している。


遠州からの参詣者ゆかりの、ある旧宿坊を紹介しよう。石徹白の宿坊構造は、二階建ての場合、一階部分と同じ面積で二階部分を造る総二階となっている。二階には白山神の祭壇が設けられた「白山の間」があり、隣に仏壇の間がある。その前は襖を外せば広間となり、参詣客の布団をたくさん敷くことができる。一階は食堂と家族の部屋がある。


豪雪地帯のため、かつては傾斜の急な板屋根で石を置いて止めていた。家の傍らには雪かきをした雪を溶かす池があり、水が豊かなこの里では四六時中山からの水が循環して凍ることがない。家の廻りは石敷きで雪が解けやすくなるなど、さまざまな特徴がある。


この家には文化13年(1816)に京都の公家で神祇伯という役を仰せつかっていた白川家が出した、石徹白中居神社社人の免状「許状(きょじょう)」が残っている。(山)