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第18回 白山信仰と袋井6 赤尾山の白山神

 

高尾に所在する赤尾渋垂郡辺神社(あかおしぶたれこうりべじんじゃ)の場所は、赤尾山長楽寺(あかおさんちょうらくじ)という真言宗の寺院でした。この寺院は、明治初めの神仏分離政策によって廃寺となり、神社に変わったわけです。


寺の歴史に関しては「長楽寺由来記」という古記録と、天保六年(1735年)に領主に提出された書類の写しが残されていて、江戸時代後期(19世紀)のようすと、この当時寺に伝えられていた由緒の内容を知ることができます。


どこの寺院も同じことですが、実際の創建についてはわかりません。この書類には「後白河帝の御宇保元二年丁丑年春本堂諸伽藍御再建これあり此時改めて赤尾山長楽寺と号す」と書かれています。保元二年とは1157年で、付近から採取される土器の年代や法多山尊永寺(はったさんそんえいじ)と関わりが深いという状況証拠などから、平安時代後期頃に創建された可能性が考えられるので、この年代は妥当なところでしょう。


江戸時代(17世紀以降)には高野山普門院(こうやさんふもんいん)の末寺となり、朱印高(しゅいんだか:幕府から認められた寺社の土地からの収穫高のこと)が15石でした。室町時代には坊院(寺を構成する子院)には吉祥院・安寿院・拾楽院・善養院・大乗院の5カ所がありましたが、戦国時代の争乱やその後の火災で衰退し、最後には大乗院・善養院が残り、このうち大乗院が別当(今の住職にあたります)という寺を取りしきる立場にありました。


建物は南西方向に開いた谷地形を利用して建てられ、谷奥の現在の神社本殿の場所には本堂にあたる阿弥陀堂が、南側の尾根上には寺院鎮守の白山社が、西側の尾根側には多宝塔が建っていたようです。(山)