旅人の目印として親しまれた一里塚も時代が変わって明治時代になると鉄道の登場や交通手段の変化により、歩いて旅をすることがなくなり、役割を終えてしまいます。そして、自動車が登場すると、道路を広げる工事などで削られ、袋井市内にあった二ヶ所、四基の一里塚も姿を消してしまいました。
一里塚のあった木原地区では、有志の方々が集まり、なんとか昔の姿を復元したいという想いで「木原一里塚復元研究会」を結成し、教育委員会と一緒になって周辺の一里塚の発掘成果や文献資料の調査、塚の上に植えられていた樹種の調査や樹木の選定を行い、その結果をもとに復元設計図が作成されました。
設計の要旨は、
- 江戸時代前期(17世紀)の姿を基本とし、移植する樹種は榎(えのき)とすること。
- 古文書類から塚の直径は五間(約9メートル)、高さは一間半(約2.6メートル)とすること。
- 各地に残る一里塚の敷地の平面が多角形であることから、下段に石積み三段の方形基壇を設けること。
これらをもとに平成11年3月に、もとあった場所の西側約60メートルの地点に「平成の木原一里塚」が復元され、当時の姿を現しました。(山)