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第11回 「西浅羽村 一ノ池新田」 

 

旧原野谷川のなごり


大日本帝国陸地測量部が大正九年二月に発行した地形図の西浅羽村に「一ノ池新田」という地名が記され、現在の地名でいうと、浅岡八幡地区の東側にあたります。


これは明治初期から同22年にかけて西浅羽地区に実在した村の名前で、明治22 年に浅岡村・富里村・長溝村・中村が合併して西浅羽村が誕生すると、同村の大字として残りました。


この名前が成立した背景には、大変なドラマがあります。室町時代から戦国時代にかけての原野谷川は、彦島・松袋井・八幡・長溝・中村・富里などの集落の中や縁を蛇行して流れ、たびたび洪水を起こしていました。


関ヶ原の戦いが終わり、徳川氏が政権を握ると、遠州の海岸平野では大規模な治水事業が始まり、原野谷川の河川改修も行われました。このとき、新たに川筋を掘り直し、太田川と合流させ、両河川は真っ直ぐ遠州灘に注ぐという、現在の流路が完成します。慶長9年(1604)のことです。


この時、旧流路は塞がれて池となり、北から一の池、二の池(中村)、三の池(富里)という細長い池が誕生しました。原野谷川が西に移動すると、旧流路に沿った部分の自然堤防上には集落が移動して八幡村・長溝村・中村・鳥羽野村が成立し、周辺の低地は水田として拓かれ、三つの池も灌漑用として当初は利用されましたが、次第に埋め立てて水田に変わり、「一の池新田」が誕生したわけです。


八幡村の東に新たに誕生した集落は、明治元年に独立して「一ノ池新田村」として成立しましたが僅か20年ばかりで消滅し、その後は地名標記として残ったものの現在ではそれも変わり、実際の池のあった一段低い田圃の部分に小字「一の池新田」として地名が残っています。(Y)

 

参考文献

  • 『二万五千分の一地形圖濱松近傍三号豊橋四号見付ノ二』(S291.0 フ)

※袋井市の歴史を調査研究の場合は、袋井・浅羽図書館の郷土資料コーナーをご利用下さい。