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第8回 小笠山の西からとった「笠西村」(中編)

 

小笠山とのかかわり


笠西村の地名は小笠山の西という位置関係から、採用されたといいます。では、どれくらい、深いかかわりを持っているのでしょうか?


小笠山の最も標高の高い地点には小笠山の守護神である天狗多聞天(たもんてん)が祀られています。


多聞天は、室町時代に浅羽地区旧柴村の河村家出身の小太郎という子供が修行を積んで天狗になったと伝えており、かつては、河村家の当主が秋の大祭に出向かないと、小笠神社の神事が始められませんでした。


笠西村内の法多の領主は尊永寺で、江戸時代には205石の朱印地を持ち、鴨江寺に次いで、遠州で二番目の大寺院でした。この新年の祭礼に「田遊び」があり、芸能を行って、神様をもてなします。


その演目中に「神唱(かみとな)え」と言って、神事が無事とり行われるように「八百万(やおよろず)」の神々を呼び集める場面があるのですが、その中で、遠州一宮の小國神社から始まり、春埜(はるの)山・大尾(おび)山・日坂事(このの)任(まま)神社を経由して御前崎の駒形神社・三熊野神社から小笠山を通り、最後に尊永寺の鎮守様、白山神に至る道筋の、神や仏の名を読み上げます。


これは、平安時代末から南北朝時代にかけて、遠州中の山伏や修行僧が集まって盛んに行われた、山岳修行を物語る唱えごとで、小笠山の山神が締めくくりで、その満願の祈祷所が尊永寺であったということがわかります。


江戸時代以降は、小笠山は横須賀藩領となり、南の土方(ひじかた)地区との結びつきが強くなりますが、それ以前は、むしろ、法多沢を登る西側ルートが中心であり、ここで紹介した二つの事例がそれを物語っています。 現在もこの小笠山への道筋は、ハイキングコースとして利用されています。(Y)

 

参考文献

  • 『遠江古蹟図絵』(K291.5ト)
  • 『しずおかの文化 91号』

※袋井市の歴史を調査研究の場合は、袋井・浅羽図書館の郷土資料コーナーをご利用下さい。