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第7回 小笠山の西からとった「笠西村」(前編)

 

村の成立


明治22年(1889)の町村制施行に伴い、高尾・愛野・豊沢の三ヶ村が合併して笠西村が誕生しました。その後、昭和3年(1928)に旧袋井町と合併するまでの39年間存在し、この間、地図上に明記された村でした。


先の三ヶ村は明治8年から、翌9年にかけての村統合により、江戸時代の行政範囲であった高部村と赤尾村が一つになって高尾村に、法多沢や菩提沢に面した神長村・宝野新田・菩提新田・法多村(明治7年に村となる)が一つになって豊沢村(実り豊かな沢という意味か)に、小野田村と石野村が一つになって愛野村にと、それぞれ成立したものです。


このうち高部村・小野田村は旗本渡辺家が、赤尾村は旗本室賀家が、宝野新田・菩提新田・石野村は横須賀(藩)西尾家が、法多は尊永寺がそれぞれ支配するというように、村ごとに領主が異なっていました。


特に、小笠沢川・原野谷川をかかえた高尾村では、新村成立後も出水・旱魃(かんばつ)との闘いで、年中、川さらい、溝さらい、護岸の杭打ち作業にかり出され、明治25年の小笠沢改修工事、同44年の二次改良工事を経て高尾田面(とおもん)の耕地整理が完了したのが大正2年(1913)のことでした。


成立間もない明治24年の笠西村の戸数は509戸、人口2,499人という規模で、役場は小野田7番地に置かれました。(Y)

 

参考文献

  • 『ふるさと袋井南第1集』(S234 フ)
  • 『笠西小史』(S234 カ)

※袋井市の歴史を調査研究の場合は、袋井・浅羽図書館の郷土資料コーナーをご利用下さい。