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第5回 荘園の名前にちなむ「笠原村」(中編)

 

笠原村の成立


「笠原村」のもとになった「笠原」という名前は、九世紀頃成立した笠原(かさはらの)荘(しょう)という荘園名に由来しています。


荘園というのは貴族(含皇族)や大社寺の私有地のことで、笠原荘は馬を飼育し供給する「笠原牧(まき)」に起源を持つ荘園で、その範囲は菊川河口を中心に遠州灘にそって広がり、旧浜岡町・大東町・大須賀町・小笠町、これに袋井市笠原地区のごく一部にまで及ぶ広大な荘園でした。


はじめの頃は左大臣 源俊房(としふさ)家が家領としていたことが史料からうかがえ、その後、関白藤原頼道や平重盛(しげもり)が荘園の権利をもち、鎌倉時代には賀茂斎院(さいいん)(賀茂神社に巫女として奉仕した未婚の内親王・女王)領にと、中央貴族や社寺との関わりが常に見られる荘園でした。


近年の研究によって、この荘園の中心は菊川に沿った旧大東町中と考えられるようになり、そこには「公文(くもん)」「政所(まんどころ)」「紋誅所(もんちゅうじょ)(問注所)」という、役所の名前を示す小字も残っています。


笠原荘の鎮守は熊野三山が担い、東方を高松神社(熊野新宮)、北方を小笠神社(那智)、西方を三熊野神社(熊野本宮)がそれぞれ守護しています。この荘園名が、明治22年の山崎村と岡崎村の合併時に採用されたわけです。(Y)

 

参考文献

  • 『静岡県史 通史編1 原始・古代』 (S201 シ 1)

※袋井市の歴史を調査研究の場合は、袋井・浅羽図書館の郷土資料コーナーをご利用下さい。