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第3回 徳川家臣の移住にちなむ「幸浦(さちうら)村」(後編)

 

大変な投資を行ったにもかかわらず、版籍奉還、廃藩置県という大きな激動により製塩方はわずか二年後の明治5年(1872)に廃止となり、公的援助を失った旧徳川家臣達は、しだいに各地の身寄りを頼って離散することになりました。


明治になり地租改正が進むと、それまでの村では人口・面積・財政ともに小規模であったことから、税負担能力向上を目指して政府・県などの指示により村合併が繰り返されました。


海岸地帯では、明治22年(1889)に湊村・太郎(たろ)助(すけ)村・西同笠(にしどうり)村・寄木村の四村が合併し、その村名には大久保一翁が贈った和歌に詠まれた「幸の浦」が採用され、幸浦村が誕生しました。


昭和30年、浅羽地区の広域合併によって浅羽村が誕生すると、幸浦村の名前は消えましたが、「幸浦」という言葉は今も根強く残り、平成13年には一翁の孫にあたる安威氏の揮毫による、「幸の浦」の碑が建立され、その由来を後世に伝える事業が文化協会の方達と共に実施されました。(Y)

 

参考文献

  • 『浅羽風土記』(S235 ハ)

※袋井市の歴史を調査研究の場合は、袋井・浅羽図書館の郷土資料コーナーをご利用下さい。