第2回 徳川家臣の移住にちなむ「幸浦(さちうら)村」(前編)
「幸浦村」という名前を初めて目にする方が多いのではないでしょうか。
これは、明治22年5月から昭和30年3月まで、浅羽南部の海岸地帯にあった村の名前で、地図にこそ「幸浦」という標記は消えてしまいましたが、現在でも地域住民の間では、「幸浦から来たよ」などと言って、根強く使われている地名の一つです。まずは、名前の由来から。
それは、徳川15代将軍 慶喜(よしのぶ)が1867年に朝廷に政権の座を返還したときから始まります。翌年、徳川家は駿河・遠江などの一大名として駿府(静岡市)にやってきました。これに従った多くの家臣達は無禄を覚悟に、それぞれが集団を作っては原野の開墾など、生活の糧を求めて移住し、その数は6000世帯、3万人に及びました。
その中の一つ、徳川海軍の流れをくむ運送方が製塩方として組織替えされ、1870年(明治3)に150人が湊村(袋井市湊)に集団移住して製塩事業を始めることになりました。
駿府出発の日、リーダー(頭取)の松岡萬(つとむ)は、駿府城に静岡藩庁大参事(現在の知事)であった、大久保一(いち)翁(おう)を訪ね、一翁から次のはなむけの和歌として 「武士(もののふ)の競ふ綱引の海幸に、幸の浦々末栄ゆらし」 を贈られます。
このとき、浅羽の海岸を「幸の浦」と詠んだことが、のちに村の名前になるとは、誰も考えませんでした。(Y)
参考文献
- 『静岡県市町村合併沿革誌』(S317 シ)
※袋井市の歴史を調査研究の場合は、袋井・浅羽図書館の郷土資料コーナーをご利用下さい。